『James Brown』

taishiho2007-01-31

DVD「Live At Chastain Park」
きのうGEOに行ってDVD「ゲロッパ!」を借りた時に
中古品のコーナーを見ていたら、ちょうど売っていました。
安かった(1480円)ので、つい買ってしまいました。
途中で数々のアーティストの名前が出てくるのが印象的です。
エルヴィス、サム・クックジャニス・ジョップリン、etc.
偉大なるミュージシャンを偲び、共に祈ろう。
ジョン・レノンボブ・マーリーマービン・ゲイ
パフォーマンスが面白いので聴くだけじゃもったいない。

「ライヴ・アット・チェイステン・パーク」
ソウルの帝王ジェームス・ブラウン、壮年期の絶頂ライブ!
100曲以上のヒット・ナンバーを持ち、半世紀にも渡って活躍する。
2003年には映画「ゲロッパ!」の大ヒットで脚光を浴び、日本でも
国民的アーティストとなった。そんなJ.Bが1984年、アトランタ
チェイステン・パークで行ったライブ。
曲目

1 Give It Up Or Trun It Loose
2 It's Too Funky In Here
3 Try Me
4 Get On The Good Foot
5 Prisoner Of Love
6 Get Up Offa That Thing
7 Georgia On My Mind
8 It's A Man's Man's Man's World
9 Cold Sweat
10 I Can't Stand Myself
11 Papa's Got A Brand New Bag
12 I Got You (I Feel Good)
13 Please, Please, Please
14 Jam

James Brown


誕生:1933年05月03日 in Barnwell, SC


20世紀の黒人音楽の歴史で、最も偉大な功績を残したアーティスト、それがジェームズ・ブラウンだ。”ゴッドファーザー・オブ・ソウル”を始め、”ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン”、”ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショウ・ビジネス”、”ミスター・ダイナマイト”、そして最近では”ザ・モースト・サンプルド・マン”といった異名を取るほど、その影響力は計り知れない。

1933年5月3日、サウス・キャロライナ州バムウェルに貧しい家庭に生まれ育ったJBは間もなく、ジョージア州オーガスタに移り住むが、子供の頃から非行に走り、10代始めには少年院にも入れられるという生活を送っていた。が、その後音楽に目覚め、50年代初頭には自身のヴォーカル・グループ、The Famous Flamesを結成。そして’55年11月には、メイコンにあるラジオ局WIBBステーションでソロとして初のレコーディングを行う。その時の曲があの「Please、 Please 、Please」であった。翌年、King/Federalレコードと契約を結んだJBは、同曲を再レコーディングし、いきなりR&Bチャートで最高5位を記録する大ヒットとなり、その個性的かつ独創的なヴォーカルは後に黒人音楽の新しい時代の扉を開ける事となった。

’58年、始めてのニューヨーク録音となるシングル「Try Me」を発表。これまでの南部臭さがいい意味で洗練されたこの曲で、早くもR&Bチャートを制したJBは翌年、それまでの作品を集めたデビュー・アルバム「Please 、Please、 Please」を発表。この1作でJBの名を世界中に知らしめた。当時のJBはこういった曲に代表されるバラードを多く発表しており、60年代前半にかけ、所謂”アーリー・ソウル・バラード”の代表格としても認知されるようになっていた。中でも「Bewildered」、「I Don't Mind」、「Lost Someone」等は全てR&Bチャートでもトップ10にランク・インされるヒットとなった。アルバムでは’63年に傑作「Prisoner Of Love」を、さらに歴史的なライヴ・パフォーマンスを収めた「Live At The Apollo」が発表されたのもこの年だ。

この頃からJBのファンキー・ソウルへの移行が顕著となっていく。そのきっかけとなったのが、’64年発表の「Out Of Sight」だろう。さらに翌年、7年振りにR&BチャートNo.1に輝いた「Papa's Got A Brand New Bag」でファンキー路線を極めたJBは続く「I Got You(I Feel Good)」で連続No.1を獲得。勿論、ルーツであるバラードでも多くの名曲を残していたが、この時代のJBは黒人だけが表現できるファンキーなリズムを全面に押し出したナンバーにこそ象徴される存在だったと言えるだろう。

’「It's A Man's Man's Man's World」、「Cold Sweat」、「I Got The Feelin'」、「Say It Loud」、「Give It Up Or Turnit A Loose」、「Mother Popcorn」等のナンバー・ワン・ヒットを飛ばし、スター街道を突っ走るJBは、70年代に入っても、まさに第2の黄金期を迎えるべくあの傑作「Get Up(I Feel Like Being Like A)Sex Machine」を発表する。ここでの衝撃的かつ斬新なビートはその後の音楽シーンに多大な影響を及ぼした。この時代のヒット曲も数知れず、ナンバー・ワンになった曲だけでも「Super Bad」、「Hot Pants Part.1」、「Make It Funky」、「Talking Loud And Saying Nothing」(ブーツイのベースがサイコー)、「Get On The Good Foot」、「The Payback」(最もサンプリング使用度の高い1曲)、「My Thang」、「Papa Don't Take Ne Mess Part.1」等が上げられる。

70年代中期以降、その勢いにやや陰りが見受けられたものの、JBのパワーは全く衰えを知らなかった。80年代もアルバムをコンスタントに発表し続けたJBが、久しぶりに世界から脚光を浴びたのが、あの映画「ロッキー4」のサントラに収録された「Living In America」で、日本でもこれがJB再評価のきっかけともなって、若いファンにも広く知られるようになった。しかし、本格的なチャート・カムバックという意味では’88年の「I'm Real」(R&Bチャート2位)という事になるだろう。

が、その数ヶ月後、JBは、オーガスタの街道で運転中、警官の職務質問を振り切り逃走。時速160キロ以上の猛スピードで自宅のあるサウス・キャロライナ州へ逃亡し、数台のパトカーとカーチェイスの後、14発の銃弾が彼の車に打ち込まれるという事件を起してしまうのである。奇跡的に助かったものの、JBの車からドラッグが発見された事により、さらに罪が重くなり、何と6年という実刑判決を受け、州刑務所に服役するになってしまう。このニュースは全米を駆け巡り、多くのブラック・ミュージシャンや音楽関係者、ラジオ関係者などが刑の減刑を嘆願する署名を集めたという。獄中の模範的な態度も認められ、約2年半を過ごしたところで、仮釈放が決定、晴れて自由の身となった。’91年2月の事である。

出所後、すぐにレコーディングを開始し、その復帰作となったのが同年7月発表の「Love Over-Due」だ。まさに世界が待ち焦がれたゴッドファーザー・ブ・ソウルのカムバックに狂気乱舞したのは言うまでもない。シングル・カットされた「Move On」を始め、ここには紛れも無く彼の決して失われる事のない”魂”が脈々と息衝いていた。翌年発表した「Universal James(世界はJB)」では、制作陣に当時の音楽シーンにキー・マンとも言うべきソウルIIソウルのジャジーBや、C+C ミュージック・ファクトリーのクライヴィルス&コールが参加するなど、明らかに時代を意識した音創りで、その存在をアピールし、日本では某食品のCMにも出演し話題となった。