『富岡製糸場1』

taishiho2012-08-15


世界遺産暫定リスト記載が決まった「富岡製糸場」に行ってきました。
見学料は一人500円でしたが、置いてあったスタンプラリーのパンフに
クーポン券が付いていて400円で入ることができました。

途中、自動販売機のある休憩所でユニークなイスとテーブルを発見!
こんな魅力的なイスを自分でも作ってみたくなりました。

富岡製糸場は、群馬県富岡市にあった日本初の機械製糸工場である。敷地および主要な建造物は2011年時点で現存している。官営模範工場の一つであり、明治5年10月4日(1872年11月4日)に操業を開始した。

開国直後の日本にとって、利益が期待された輸出品は茶と絹(生糸)であった。だが、繭から生糸をつくる製糸工程は人力や前近代的な小規模な器具によるところが大きく、生産量が少ないフランスやイタリアよりも製品の質の面で大きく劣ると評されていた。このため、これらの国々と同様に大規模な機械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが殖産興業推進のためには欠かせないと考えられるようになっていった。

明治政府は、フランス・リヨンの商社、エシュト・リリアンタール商会の横浜駐在員であり、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナ(Paul Brunat)の指導でフランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入し、養蚕業の盛んな富岡に日本初の機械製糸工場を設置した。日本側の責任者となって資材の調達や建設工事の総指揮をとったのは、のちに初代所長になる尾高惇忠であった。当時は世界でも有数の規模であり、和田英ら数百人の女工が日本全国から集められた。女工の労働環境は充実しており、六工社など後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。ただし、当時大蔵民部省官吏として建設に尽力した渋沢栄一は、後年自己批判も込めて「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と書き記している。

当初は民部省が設置し、大蔵省、内務省農商務省と所管が移った。明治8年に日本人による操業が始まったが、大規模すぎたため十分に機能を発揮できず、官営工業の払い下げ令により、明治26年1893年)に三井家へ払い下げられた。この間、日本で初めての洋式機械製糸場を前橋に作った速水堅曹が内務省に移り、2度、所長に就任、民営化されるまで操業を支えた。明治35年(1902年)には横浜の生糸商原合名会社(原富太郎)に渡り、昭和14年(1939年)、片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となると昭和62年(1987年)3月5日まで約115年間操業を続けた。

史跡指定と世界遺産登録へ向けた動き

約1万5千坪の敷地内に開設当時の東・西繭倉庫(12メートル×104メートル)、繰糸場(12.3メートル×140メートル)、事務所、外人宿舎など煉瓦建造物がそのままの形で残っており、重要な近代化遺産である。

平成17年(2005年)7月14日付で「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)7月5日には明治8年(1875年)以前の建造物が国の重要文化財に指定された。なお、全ての建造物は平成17年(2005年)9月30日付けで地元富岡市に寄贈され、翌日からは市が管理(富岡製糸場課)を行っている。ボランティアガイドがおり、予約しておくと詳しく説明が受けられる。

現在、群馬県富岡市を中心に富岡製糸場とそれに関連する絹業文化遺産を、世界遺産に登録する取り組みが進められている。平成19年(2007年)1月30日には「富岡製糸場と絹産業遺産群」(The Tomioka Silk Mill and Related Industrial Heritage)として、日本の世界遺産暫定リストに加えられた。平成24年(2012年)7月12日、文化庁文化審議会世界文化遺産特別委員会において、「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産へ推薦することを了承した。